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    2022/04/14

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    今年、二度、郷里の空き家で過ごした。とても遠い外国とほぼ変わらない郷里でハンディキャップのある子と二人、一ヶ月、時には二か月滞在するのは、とても大変でもある。片 ...

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    2022/04/11

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    田舎で過ごして東京へ戻り心の思うところがまったく違うと感じて、また目からうろこが落ちた。コロナ禍で緊張し続けてもうだいぶ時間が経った。一ヶ月の滞在中、紹介された ...

  • 2022年で洗礼20年

    2022/03/02

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    今年3月14日で洗礼してから20年となる。年が明けてすぐ旅生活になり、二か所の教会でお世話になった。祈り会は夜なので、近くのホテルを取り、暗い夜道の運転にナーバ ...

 

今年、二度、郷里の空き家で過ごした。

とても遠い外国とほぼ変わらない郷里でハンディキャップのある子と

二人、一ヶ月、時には二か月滞在するのは、とても大変でもある。

 

片づけなければならないことがあり、

お金も体力も時間も全部持っていかれそうな過酷な帰省に

天国にいる親に時には愚痴も出る。

 

なんのためにこんなことをしているのだろう。

教会で出会う温かいシェアに、このため・・・か

と涙が流れる時もあった。

だが

 

東京に戻り

楽な自宅生活に戻り

 

恐ろしくはっとなった。

 

祈った時

手に重さを感じることや鳥肌が立つことはこれまで経験してきたが

 

郷里で

実は凄い人に会ってしまったのです。

その方は、わずか20分ほどでご自身がつくられた「幕屋」を披露説明

された。

 

私の両親に会ったことがあるというので、家での披露となった。

本日初披露ということで、時間も限られた中で説明まであった。

 

その時

子供と三人がいる部屋がそのまま天とつながってしまったような不思議な

時間、光景が起きた。

 

うちの事情を知らないで、「幕屋」を説明しているその方

幕屋をミニチュア模型で初めて見る、「神」への畏れが過ぎて

かつて、体を壊した感のある私、巻き添えになってしまった子供・・・

 

神様って・・・

 

生きるってなんだろう・・・

 

20年、避けてきたこと

逃げていること

ビビリな私は、じつは今も東京に戻ってもうわのそらである。

 

日曜日

コロナ禍になる前まで通っていた教会へ行こうと思っている。

祈るためであるが、教えも乞いたい。

 

幕屋の大切な説明の時

バクバクと心臓が持たず、巻いて終わった説明があった。

 

「高ぶる波はここまで」

 

聖書には、はい、そうです、というみことばが全部そろってある。

神様のことばなのだから、それもそのはず。

 

日曜日に向けてただひたすら恩寵にすがるように祈っている。

 

主よ、あなたを知ることが心を落ち着けるゆいつの方法となりました。

それ以外、自分を落ち着かせる術がありません。

 

わたしはキリストクレイジー

あなたの幕屋

もう一度教えてください。

今度はこわがりません。

 

聖書

一冊に仕上げられた書物

 

それなのに

20年経ってもわたしは一部も知らない。

 

世にある大量の情報に、本に埋もれてきたはずの読むのは好きな

ほうなのに、わたしのボロボロの聖書は、まだまだ、まだまだ奥があるのだと

息をしているように招くのです。

 

全部がそうか、そのためか

そういうふうに後でわかってくる。

 

「これが道だ。これをゆけ」

 

もう備えが早々とわかるようになって

天が開いている感じがますます強まって

 

ハレルヤ!

ただ神をほめたたえます。

そして、役立たずにならないよう

神の息に繊細に反応できるよう

そう祈っています。

 

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田舎で過ごして東京へ戻り

心の思うところがまったく違うと感じて、また目からうろこが落ちた。

 

コロナ禍で緊張し続けてもうだいぶ時間が経った。

 

一ヶ月の滞在中、紹介された教会へ子供と必死に通った。

24時間、神様の中だけにいたい感覚があって、買い物へ行く前に立ち寄って、

密かに祈ろうと思ったが、住まいも一緒の奥様に気を遣わせてしまい、

二度目で反省、学習して、市街地より遠い場所での二人暮らしの孤独感を

仕方ない、と諦めた時、

 

イエス様が何故、十字架なのか

神の右の座に就くということがどれほどのことなのか、

ああ、帝王学って・・・

ここから来ているのか、と鳥肌が立った。

 

誰でも人は生きている以上、いつか必ず体のどこかが痛くなる。

誰かが助けてくれなければ、痛みにのたうちまわって絶望で時間と

戦うしかないし、死が逃げていく、というみことばさえ聖書にはある。

 

弱さには弱さの救いがあり、

強者にはつわものの救いがある。

神は、限りなく底をすくい

限りなく高きを打つ。

 

ご自身のひとりごを十字架にかかってこい、とご計画をたてる。

それを成し遂げるひとりごの神

 

何もない、誰もこない大自然の中での子供との田舎暮らし

心細かったが、救いのみわざの意味が次々と降りてきたというのか、湧いてきて

いかに日常を心細さのゆえに人へ人へと向けていたことか、とはっと、

気づいた次第。

 

主を思う時間はどうした?

 

日常へ戻った今も人へ人へといこうとする心を止めるものがある。

 

知れ、わたしを知れ、という神の息が近いままなので、

もう誰彼と話したい、という心細さが消えてしまった。

 

体もあちらこちら痛む時があっても

「閾値」 だ。

ゼロか10だよ、とすぐに消えよ、と命じる勇気が出てきた。

 

座る、主の中に座る

 

死ぬときは死ぬとき

十字架上の主は、額から頭上から足に至るまで

あらゆるところを痛みに預け、死に渡し、

そして死から蘇り御父の右の座に着いておられる。

 

帝王学の奥義を感じて泣きそうになりながら

弱虫のままの自分の毎日に呆れながら、

そんな人をも愛してやまない神の手厚い保護を

今のこの時代、

全ての人が恐れているこの時代、

誰でも感じる時が近いというのは、すべての治療に勝るチャンスと感じている。

 

恐れるな、とも語る。

 

どん底を知る時も神の息に触れるチャンス

誰彼を救いたいと、大きなジャンプをしようとする若者にも

神の息に触れるチャンスがある。

 

疲れたなら折れてみたらいい。

ポキンと折れてみればいい。

 

イエス様は個人の負いきれる重荷を十分に知っておられる方

負いきれない分はすでにわたしが負ったではないか

あなたにはできない、わたしがした、わたしに帰れ、と語る。

 

わたしを信じるか

はい、主よ、あなたが救い主であることを信じます。

 

救ってください。

助けてください。

 

人の心に選択肢を置かれた神は、

生ぬるいものは吐き出すとも聖書には書かれている。

 

熱いか

冷たいか

 

神は光

光は光であり、

共にあるならば、グレーも黒も残れるはずがない

 

主は道であるのだから、その道でしか光にはたどり着けないのだと

聖書は語る。

 

 

24時間、教会で暮らしたいほど

田舎の教会生活は天国にいるようで、子供と二人、今も感謝です。

 

ハレルヤ!

 

 

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いよいよという時が近づいて祈りあう人を求めた。

 

若い兄弟と祈りあった。

若い声でアーメンという。

ありがたくて涙が出る。

 

イエス様は母マリアと兄弟が訪ねて来た時、

私の母とは誰ですか。兄弟とは誰ですか。

信仰にある兄弟姉妹が母であり、兄弟である、と明言している。

 

神様が語ったのだから、そうである。

 

偽善も取り繕いもない

一点でつながる祈り

もうそれしか要らない。

 

もう一人、

私より年長の姉妹へ電話をかけた。

体調を崩しているが、全力で共に祈りあってくださった。

 

ありがたかった。

 

自分のことなら電話はかけない。

 

二人の祈りの力を得て、こうべをあげて

身を起こして、主の武具を身に着けて、

さて、また動き出そうという元気が出てきた。

 

二人、あるいは三人の者が心をひとつにしてわたしの名にあって

祈ればわたしはそこにいる。

 

そう聖書に書いてある意味がしみじみと心にしみた。

主よ、あなたの十字架がなければ

私たちは存在しません。

ハレルヤ

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2022年で洗礼20年

 

今年3月14日で洗礼してから20年となる。

 

年が明けてすぐ旅生活になり、二か所の教会でお世話になった。

 

祈り会は夜なので、近くのホテルを取り、暗い夜道の運転にナーバスにならずに

祈りに集中できた。

 

奇跡はホテルに戻った時から始まった。

祈りはすべて叶えられ、今でも不思議ばかりの上に立っている。

東京へ戻ってきたが、来週からまた東京を離れることになる。

 

息子に会えるだろうか

 

住所も知らずに挑んだが、祈り会の夜・そして翌日、

かかってくるはずのない子供の父親から電話があり、

息子の住所と部屋番号を教えてもらった。

 

電話は、自分は癌だ、という内容が最後に足された。

しばらくぼおーとしていると、トロくなる私にすぐにイラッとしただろうが

上手に隠して、

自分は心がない人間だからという、奇妙な話を続けてきた。

 

その奇跡の電話に従って会いにいったら、息子と会えた。

部屋で一緒に祈ることもできた。

洗礼を受けたことを後悔しているなら、祈りあうのはいいからね、

と伝えたら、それだけはない、と言って、アーメンと共に祈った。

 

だが翌日から、後妻であり、息子の義母となった女性の反撃を受けて

もとと変わらない、警察へ通報しますから、接近禁止ですから、と

また会えない人に息子はなってしまった。

 

砂漠で飲むコップ三分の一ほどの水

そのあとはまた砂漠の時間が続くだけ・・・

 

そんな水を飲め、と初めから知っていたら私は飲めただろうか。

正直、ただただ苦しい。

 

こういう拷問は母親を殺すのに最上なのだろう。

私は生きている間、砂漠をふらふらと歩くこれからを終わらせたくて

息の根が止まるかもしれない道を選択したのかもしれない。

 

今の暮らしを止めて、もとの地獄絵図の世界へ飛び込もうとしている

自分の今の状態を、そうとしか思えなくなる瞬間がある。

 

東京暮らしは息子さえいれば、今まで生きてきた中で最高の至福の時間だ。

 

洗礼前に味わった気味の悪いできごとばかりだった場所へ舞い戻ろうとする

スイッチを入れたのは、やはり

「俺さ、がんになってさ」

というところから始まったように思う。

 

奇跡の電話だと感じたあの瞬間

あれは何かの始まりだったことは確か

終わりの時代、聖書にはこうある。

 

女が二人いたら、一人は部屋に荷物を取りに戻り

もう一人は、そのまま主に導かれるまま屋上へ行くという箇所がある。

 

教会で部屋に荷物を取りに行くのは魂へ戻ることと教えていただいた。

 

「はい、主よ」

 

私は、屋上へ向かいたい。

 

地獄を見た場所へ導かれても、そこに主がおれば私はそこへ行きたい

 

敵であろうが、鬼であろうが、

あの時の私はもう死んだ。

生まれて主と共にある20年で、正直、私はもう何も怖くない。

 

何が一番怖いかというと

主から役立たず、と言われることが怖い。

主はそういうことは言うまい、言わせない、というほどに

キリスト者は誰もが主を愛しているのだと思う。

ヨナ書を読んだ。

 

「はい、主よ。しもべはここにおります」

 

愛する方に愛されたい。

愛して下さっている方に応えたい。

 

主の時はすべて理にかなって美しい。

祈りはすべて聞かれている。

ハレルヤ。

 

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