カテゴリー:未分類

 

 

わずか一か月が経っただけなのに、もう一年が過ぎたような感覚でへたっていた。

 

近所に教会を見つけ行っても見たが、その翌週は自宅で祈ることにした。

 

何かが変だと感じて、朝起きたらすぐに聖書を読むことにした。

エレミヤ書を読んでいる。

 

8章

  彼らはみな、戦いに突入する馬のように、

  自分の走路に走り去る。

 

7 空のこうのとりも、自分の季節を知っており、

  山鳩、つばめ、つるも自分の帰る時を守るのに、

  わたしの民は主の定めを知らない。

 

 

***

 

 

契約の民が捕囚の民となる前、主の嘆きや御怒りがエレミアを通して

語られていく。

 

神様を知るというのは本当に不思議な経験だ。

どん底の時に、畏れ多くも神がなんであるかがわかり

十字架がなんであるかがわかってしまい、聖書が、聖なる書物だと

気づいてしまう。

 

人生は短い。

楽しい日もあり、苦しい日もある。

出会いもあれば別れもあり、

得た日もあれば失う日もある。

 

走路に走り去っていった日もあろうが、

自分の帰る時、定めの時、主の時を守りたいものだと胸に迫る。

 

聖書があって

熱心にシェアできる友がいて

ひとつの熾火が気づけば松明に、常夜灯に

 

ただただ礼拝がしたい

 

 

世の楽しみよ、去れ

そういう感覚が本当に訪れてしまった。

 

 

 

カテゴリー
タグ

 

 

定期処方をもらいに行ってから体調がすぐれない。

 

クリニックで診察拒否のようなものを受けて、

ストレスが強かったのだろう、

それから自律神経が乱れ不整脈が続いて

食事がつくれず、だらだらと過ごしている。

 

本末転倒な状況に、次回受診だけではなく、今回もらえなかった

薬も含めて、次はどうする?と考えるだけで頭が痛い。

 

移動、移動をしている今年

飛行機で戻ってすぐに受診は、と控えて

自主スティ・ホームをしていたら眠剤が切れた。

 

十分日にちを待って、事情を話していたら鼻で笑われた。

濃厚接触者の意味わかってます?

採血しないで受診って、何を診ればいいんですか?

 

受付の若い女子に何故だかさんざん説教されて10分

今日採血して来週他のお薬に関してはその時にお願いします

眠剤、と言おうとしたらお断りします、と女子に・・・

 

ナースに代わってもらえる

と、ようやく眠剤だけもらい、その時点で不整脈を感じてきたので

家へ戻った。

 

中性脂肪のデーターを見て、コロナ禍で太ったぶんのお薬を

出す高齢のドクター

他の薬はもっと重要な薬だが自分が注目した中性脂肪の薬が出せたらご満悦で

それ以外は意に介さず出してくる。

その日はその中性脂肪の値がみれないので、眠剤が切れてもしったこっちゃない

仕事で濃厚接触者だったらと、受診が遅れた?

知ったこっちゃない。

 

コロナ禍の直前で、長い間診ていただいていた主治医が急遽辞めたので

こういう状況の中、病院を変えるのはよくないと

わざわざ系列の大きなところで検査、処方の道筋を改めてつくり

Do、でいけるところまでもっていって・・・

 

遠方から戻り・・・遊んできたわけでもなく

医療従事者でもある我が家の状況はまだまだ戦場

 

高齢になると片づけられる処理能力が落ちる

患者は自分が片づけられるものだけをもって受診したのではなくて

処理できない不調を大きな能力で処理してもらいたくてくる。

 

なんだかなあ・・・

と、

 

***

 

 

 

痛みがなくなれば、

全部の条件がそろってしまえば、

私は主よ、と言わなくなるのだろうか。

 

そういうことはない

 

子供のことを子離れできずに

毎日一人づつを交代、交互に心配している心配性の私

ある時は

ありがたいなあ、すがってこないということは自立してくれているんだ、

といいようもない安ど感に勝手に思いが動くときもある。

 

そういう時は

ああ、この子はそういえばこういうことをやったな

几帳面だったなあ

とか、

優しい会話とか・・・

 

そして結局子供、子供、と脳は忙しい。

 

愛って人の間に存在するときはそんな感覚のようではなかろうか。

 

主を思う時は助けてください、が多いですが

神の救いのプロセスの壮大さに改めて、膝を打つ時、祈る時、

 

主よ、わたしは何をすればよいでしょうか。

 

と、今の心境のようなことが起きてくる。

 

体もまだ動かせる、老いていくには気が早すぎる。

子供・子供と脳だけ忙しいのも違うと感じている。

 

自分が何をしたらいいか、

よくよく思い出してみれば

自由に決めて自由に時間を使う、というのは生涯初めてのことかも

しれないと思い当たった。

 

お金も暮らすだけなら支障ない

体も自分のやりたいことだけなら調整できる

時間は長くもなく短くもなく、どうぞ、と誘ってくる。

 

決断しなければ、どんどん過ぎていく

埋めたままにして歳月には必ず終わりがきてしまう。

 

「楽園」

を作りたい

主を語りあう庭、祈る部屋

 

背中を押してもらいたくて、夢を見させて下さい

と祈る日が続いている。

 

前に押し出されて踏み出す時

これまで、後ろの門がどんどん閉じられて

そこへ行くしかなかったという感覚があったので、

今も主へ甘えですが、祈っています。

 

それでいて後ろの門がどんどん閉じられていくと焦ってきます。

つくづく優柔不断な性分です。

祈ります。

 

 

 

 

 

 

カテゴリー
タグ

 

 

気づけば、迷子のような今年の行ったり来たりの慌ただしさ

 

そして、当たり前のように凄い人ばかりとシェアしてきたことに

今頃気づいて、今日など、祈りが届かず、ひどい目にあったと自宅に

戻り、またまたはっとしています。

 

神様の指の指し示す通りでないと、

めちゃキツイ目に遭っていると気づいて、これまで味わったことのない

状況に、何かが変だ、とようやく、ようやく自分のおちょこちょいな性格に猛省

している。

 

今年って

やはり例年とは違う

あまりそういうこと言うことなどなかったのに

思い切りスピリチャルなことをそのまま素直に書いてみます。

 

スムーズにコトが運ばない

 

ありえない思いを完全に超えたサプライズや出会いがある

 

体がめちゃくちゃ痛くなる

 

天国にいるようにあったかい気持ちいい気分に浸っている

 

真ん中はないんかい

というように極端な状況に、戸惑っている。

 

場所や人など何も思わないで運ばれてきたイエス様の車両

 

今年、電車が止まってドアが開いて、外へ出て、終われば車両に戻る

砂漠の外を歩いて天幕に戻る

 

そんな感覚がする。

 

昨年まで、私は車両の中だけで生活の糧も得て、子供を育てて、外の景色は

シャーと過ぎていくような感じで見ていたように覚えている。

 

今はなんでしょう。

はいはい、降りて、やることやって、

滞在時間は00時間ね、出発は置いていくことはないけれど

それぞれ未知の世界は冒険せずに、慣れたことをやって戻ってくるだけでいいから

 

という感じで・・・

 

年代によってもちがうのでしょうが

私の脳内は今こんな感覚です。

 

もう完全に迷子です。

処理能力などとうに超えているように思います。

 

穴に落ちた一匹の羊のような気分です。

 

イエス様、穴に落ちた私を救い出して下さった主

 

あの時とは違う穴だとわかります。

 

今度の穴は、

Googleearthで、人が地図の位置にぽつんとはまったあの絵図のような

目指す方向、体の向きも、頼むからもう動かないでいいよ、

そこだから、と迷子の達人の私の脳内はそんな感覚です。

 

主はそこにおられる。

もうあなたと共におられる。

右往左往するな

 

もう何もしなくていい

あなたは目的地に着いている・・・と

 

それと同時に車両のドアも開く

 

さあ、やってきなさい、と促す声も感じる。

 

生きていくって、次々不思議だと思う。

 

厳粛な気持ち、襟を正すような背筋が伸びるような

今年に入ってそんな感覚が強くなっています。

 

「わたしがあなたの神である」

 

ハレルヤ、主よ、感謝します。

 

主は常にいまし今いまし・・・アーメン

カテゴリー
タグ

 

 

人との出会いを若い頃は、それこそ出会い、と高揚した。

だが今は、一期一会か? とよぎることのほうが多い。

 

だから惜しみなく話をするマシンガントーカーになってしまった感がある。

 

無口だった親も晩年、よう喋った。

 

ずうとずうと喋り倒していた。

ことばで全部伝えようと思っていたんだな、と今ならわかる。

サービス精神だったのだと思い出す。

 

だがそれもエネルギーが尽きてきたら

指一本ですうと相手の手の甲を撫でてあっという間に相手を号泣させた

ことがあった。

 

亡くなる数か月前のこと

体は動かず、ことばも伝えられない。

 

だが相手の話す言葉の途中で

握ろうと伸びてくる相手の手の甲をそうと指でなぞっただけなのに・・・

相手は号泣

 

祭司の力って凄い、と相手は震えていたが

うさんくさいな、と親不孝なことばが一瞬頭をよぎった私の前で

ピュアに両者のまなざしはピタリと一致

 

だんだんできることが少なくなってきたら

きっと、あの極みのサービス精神の誰かを助けるという

凄みの意味がわかるようになるんだろうな、と最近思うようになった。

 

手で人を助ける

歩いて誰かを助ける

言葉で励ます

祈りあって助け合う

 

十字架の主はうなだれて

手を杭に持っていかれ

足も打たれ

 

それが人を救うためだったという。

 

 

動かせる指一本でも相手に応じようとした親の全身全霊さ、

今なら痛く、痛くわかる。

年を重ねていくことも悪くないと、思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー
タグ