田舎で過ごして東京へ戻り

心の思うところがまったく違うと感じて、また目からうろこが落ちた。

 

コロナ禍で緊張し続けてもうだいぶ時間が経った。

 

一ヶ月の滞在中、紹介された教会へ子供と必死に通った。

24時間、神様の中だけにいたい感覚があって、買い物へ行く前に立ち寄って、

密かに祈ろうと思ったが、住まいも一緒の奥様に気を遣わせてしまい、

二度目で反省、学習して、市街地より遠い場所での二人暮らしの孤独感を

仕方ない、と諦めた時、

 

イエス様が何故、十字架なのか

神の右の座に就くということがどれほどのことなのか、

ああ、帝王学って・・・

ここから来ているのか、と鳥肌が立った。

 

誰でも人は生きている以上、いつか必ず体のどこかが痛くなる。

誰かが助けてくれなければ、痛みにのたうちまわって絶望で時間と

戦うしかないし、死が逃げていく、というみことばさえ聖書にはある。

 

弱さには弱さの救いがあり、

強者にはつわものの救いがある。

神は、限りなく底をすくい

限りなく高きを打つ。

 

ご自身のひとりごを十字架にかかってこい、とご計画をたてる。

それを成し遂げるひとりごの神

 

何もない、誰もこない大自然の中での子供との田舎暮らし

心細かったが、救いのみわざの意味が次々と降りてきたというのか、湧いてきて

いかに日常を心細さのゆえに人へ人へと向けていたことか、とはっと、

気づいた次第。

 

主を思う時間はどうした?

 

日常へ戻った今も人へ人へといこうとする心を止めるものがある。

 

知れ、わたしを知れ、という神の息が近いままなので、

もう誰彼と話したい、という心細さが消えてしまった。

 

体もあちらこちら痛む時があっても

「閾値」 だ。

ゼロか10だよ、とすぐに消えよ、と命じる勇気が出てきた。

 

座る、主の中に座る

 

死ぬときは死ぬとき

十字架上の主は、額から頭上から足に至るまで

あらゆるところを痛みに預け、死に渡し、

そして死から蘇り御父の右の座に着いておられる。

 

帝王学の奥義を感じて泣きそうになりながら

弱虫のままの自分の毎日に呆れながら、

そんな人をも愛してやまない神の手厚い保護を

今のこの時代、

全ての人が恐れているこの時代、

誰でも感じる時が近いというのは、すべての治療に勝るチャンスと感じている。

 

恐れるな、とも語る。

 

どん底を知る時も神の息に触れるチャンス

誰彼を救いたいと、大きなジャンプをしようとする若者にも

神の息に触れるチャンスがある。

 

疲れたなら折れてみたらいい。

ポキンと折れてみればいい。

 

イエス様は個人の負いきれる重荷を十分に知っておられる方

負いきれない分はすでにわたしが負ったではないか

あなたにはできない、わたしがした、わたしに帰れ、と語る。

 

わたしを信じるか

はい、主よ、あなたが救い主であることを信じます。

 

救ってください。

助けてください。

 

人の心に選択肢を置かれた神は、

生ぬるいものは吐き出すとも聖書には書かれている。

 

熱いか

冷たいか

 

神は光

光は光であり、

共にあるならば、グレーも黒も残れるはずがない

 

主は道であるのだから、その道でしか光にはたどり着けないのだと

聖書は語る。

 

 

24時間、教会で暮らしたいほど

田舎の教会生活は天国にいるようで、子供と二人、今も感謝です。

 

ハレルヤ!

 

 

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