しばらく書いていませんでしたが、証しを続けて書くということを少し休むと、

自分は今何をしてどこにいるのか、

すべてが止まったような不思議な感覚があった。

 

洗礼のあと、

二つの世界を生きているような感覚があったり、

聖霊にすべてが満たされて他者でさえ、自分が見ている世界の中へ完全に取り込まれている感じを見たり

 

洗礼を受ける前と、受けた後では生きている舞台が違ってきたと感じている。

 

 

 

神様には死がない。

 

シェアしてくれる方を探して20年が経った。

今も探している。

 

イエス様は神様である。

 

神様には死がない。

では、死と復活を人類へ見せて下さったイエス様がなさったこと、そのことを

シェアしませんか、と声をかけるのもはばかれる繊細な空気はなんだろうか

 

そう思いながら

深くシェアしたい、と祈りながら書いている。

 

宗教団体や政治団体、思想団体には属していない。

属することで、ただ神をまっすぐに礼拝したい、という自由さが損なわれては

洗礼前の世に縛られていた不自由がよみがえってしまう。

 

 

神はレビ族に譲り地をお与えにならなかった。

 

譲り地を与えられた兄弟が納める十分の一、神への分が彼らの取り分となる。

時の情勢に左右されずに

ただ神へ受けた譲り地やタラントを倍にし、返納する兄弟の信仰の分だけを

自分たちの神に仕える日常の暮らしの糧とする。

 

このしくみの美しさに

神の摂理の完璧さの一理をみる。

 

兄弟にも信仰がある。

それも前提であり

レビ族・祭司の仕えるのはただ神のみ

兄弟たちの商売が繁盛したり、畜産が栄えたり、農地が豊作を生み出したりすることへの祈りを直接するわけではない。

 

誰かの位置から祈ることをしない。

 

神に仕えることととりなしの祈りは違うのだということをモーセの箇所でも知ることができる。

ダビデ王のウザの箇所からも知ることができる。

 

神の領域は光であり

聖であり

触れれば死ぬ。

面と面で会えば死ぬ。

闇は光に勝てない。

 

120年という齢をまとった人は光ではない。

直接見れば死ぬ。

 

イエス様は、仲介者としてこられた。

この方を通してでなければ何人も光の方へ移ることはできない。

永遠の命は光の中にしかない。

なぜならそこは神と人とが共に住まう場所とされているからだと書かれている。

 

イエス様を通れ

この方を知れ

 

今もこの時も神の差しべている救いはこれのみだと聖書は語っている。

コロナ禍、地震、不況、戦争のうわさ・・・

 

霊が寝ている場合ではない、覚めよ、覚めよ、と思うのに

彼らのうなじは強くなる、とも書かれている。

 

人々の愛は冷たくなり、とも書かれており、

人の魂の値段も安くで売り買いされる、とも書かれている。

 

神様には死がない。

 

イエス様は神さまである。

 

この方・イエス様という門を通った者には永遠の命が与えられる。

イエス様は光である。

神である。

人でもあった。

 

クリスチャンはもっとも苦しい時に、その奥義に出会い

そのありがたさに、喜んで死んで生まれ変わるという洗礼を受けた人たち。

ただ奇跡。

神側からのギフト、

苦しい時、もっとも苦しい時、人へ走らず、モノへ走らず

助けてください、神様・・・

その刹那、渇きの刹那に、神の慈しみの涙のしずくが

魂の殻にできた割れ目にポタリと落ちて、

その人への救いの道ができるのだと、私は経験から思う。

 

苦しい時代

ひととき

自分だけの時に、神の救いの一滴を求めてほしい、と

祈ります。

 

 

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